近藤祐

私たちは映画『マトリックス』のように、「世界一の都市東京」というヴァーチャルな白昼夢を見ているのではないか。幻覚の表皮を一枚めくれば、過剰消費社会という底なし沼が私たちをのみ込もうとしている。都市空間もまた消費対象であることを免れ得ず、昔ながらの町並みは呆気なく消え失せ、効率性・合理性を至上目的とする優等生的な空間が出現する。そこには歴史的な時間軸にそって蓄積した多様性や不整合性は存在しない。 ** そのような時代状況にあって、私は『生きられる都市を求めて』において、現代都市の私たちを窒息させる合理性の網の目から逃れ、偶発的に「彷徨う」ことを提案した。しかしそれだけでは充分でない。都市空間のみならず、私たちの生の拠点となる居住空間もまた、限度なき商品化にさらされているからである。そのもっとも顕著な例である分譲マンションの広告は、私たちを「上質で豊かな」ライフ・スタイルへと勧誘する。そこには便利さ、快適さに加え〈広さ〉という絶対的な価値が孕まれる。実際に家は広いほどよいことを誰も疑わない。では〈広さ〉に対置される〈狭さ〉は、ただのデメリットでしかないのか。